昭和21年2月23日、連合軍のC・I・Eの仕官が来校した。
都内で戦災を受けなかった学校として本校が選ばれ、各種の教育資料の提出を求めたのである。それは、

T 過去五年間に、東京都長官を通じて出された文部省よりの通達の概要
U 過去十か年間の、学校の収支決算書
V 生徒の移動(入学者・卒業者・転学・退学・落第)の統計
W 過去5年間の入学試験問題
X 校是
Y 校歌
Z 校舎の写真

で、以上をすべて英語又は英文のコメントを付けて出すことを求めたのである。
しかも、4日以内の短時間にであった。

資料はすべて戦争の混乱の中に未整理であった。失われている資料も多かった。資料をさがし、報告書の素案を作り、これを英訳する手続きを取るには、なんとしても4日間の日数では無理があった。報告書の作製に当たった野木教諭は、学校の事務室に泊り込み、不眠不休の活動を続けた。

それでも統計数字は概算で済ませるほかはなかった。校是は「質実剛健」を英訳して出すことにした。こうして漸く2月27日の期日に、すべての報告書をそろえて提出することができた。

 報告した中で校歌が問題となった。校歌を歌うことが禁じられたのである。
校歌の歌詞の中の「世界に王たる日の本の」の考え方はG・H・Qの求めている教育の方向と異なったのである。長い年月、ことあるごとに歌われて、生徒にも卒業生にも親しまれてきた校歌は、こうして歌われなくなった。

これに代わって、生徒たちの間に、いつか明治大学の校歌が歌われるようになった。それはいみじくも、戦時中のファシズムの教化の中に、「権利自由のようらんの」歌詞が不適当であるとして、学生達が口にすることを禁じられたものであった。