鵜沢総明先生って・・・
 明治中学校は、明治大学創立30年の発展のうちに誕生した。
初代校長は明治大学理事、法学博士「鵜沢総明」先生である。

 明治・大正・昭和の3代にわたって法曹界・政界・学界に活躍し特に弁護士として花井卓造とならぶ華やかな存在であった。就任以来昭和21年辞任するまで30数年にわたって校長をつとめ、明治中学を育て挙げた。

 千葉県出身。幼名を惣市といった。
12歳のとき、父親巳之松が隣村との土地争いから道路損壊などの罪に問われ、無実の罪で3年半も未決監にほうりこまれ「罪人」のこどもの苦しみをなめたことが、法律家、弁護士を志すきっかけとなった。
だから、一高−東大コースを出ながら、役所づとめなどには目もくれず弁護士となった。

 それから、60年以上にわたって一万数千件もの弁護活動をしたが、幸徳秋水の大逆事件では「国賊を弁護するとはなにごとか」と脅迫されながら”大逆”が事実無根であることを主張、尾崎咢堂が翼賛選挙は憲法違反だととなえて巣鴨拘置所に収容された事件や、極東国際軍事裁判の日本弁護団長となったほか、シーメンス事件、浜口首相暗殺の佐郷屋留雄事件など、つねに人権の擁護につくした。

 また、明治41年5月、37歳のとき、衆議院議員に初当選してから、代議士5期、貴族議員をつとめ、政友会の幹部として西園寺公望や原敬のブレーンとなった。選挙運動は、”理想選挙”そのもので演説一本槍。「いやな人は投票しないでほしい」とブッて、聴衆をおどろかせたほどだった。

 政治家としては、とくに刑法関係の立法につくし、刑事訴訟法に飛躍的な人権を認めさせ、刑事補償法をつくって無実の罪に泣いた人たちに国家補償の道を開いた。のちに明大総長を5回もつとめ明治大学の象徴として学生、校友達に親しまれた。

 その鵜沢先生が政治や裁判とおなじ情熱をそそいで理想の中等教育を実現しようとしたのが明治中学校で教員には学歴や経歴にこだわらず人材を集め、トラブルをおこした生徒の処分問題などがおきると、いそがしい時間をさいて、当人や父兄と何時間でも話し合った。

 このように明治中学の建学の精神は理想の中等教育を実現することで、よく「天下の明治である」とさけんだ。それは明治大学附属でありながら附属の殻にとらわれず日本の中等教育として第一級の中学校とすることであった。

 その当時は日露戦争後の混乱もおさまり人々も新しい日本の進路を考える時代になっていた。
すでに法律をもって全ての学問の中心であると考える時代はすぎつつあり、しっかりとした見通しをもって広い視野で世の中を見つめることが大切である。と考えられる時代であった。
それにはしっかりとした基礎教育が大切である。
そこに明治中学への期待が生まれ、学校運営の全ては明治大学より鵜沢先生にまかされたのである。